ライトノベルのライトノベル性について

BEATLESS』評


 ライトノベルというものの本質について考えてみたい。もうずっと以前から私はライトノベルとは一体なんなのかを疑問に思い考えを巡らしてきた。ライトノベルの定義論というのは諸説あって、ライトノベルについて本格的に語ろうとする者は皆まず独自の定義を掲げねば話にならなくなっている。例えば一説には「ライトノベルレーベルから出ている小説がライトノベルだ」という定義もあるが、しかしこれだと西尾維新の『戯言シリーズ』はライトノベルではなくなってしまう。だが年刊の『このライトノベルがすごい!』(宝島社)では同シリーズはその他の所謂ライトノベルレーベルから発刊された小説と同様にライトノベルとして扱われランキング付の対象となっており、しかもかなりの人気作として上位に食い込んでいる(2005〜7)。また別の説では「マンガ風のイラストを挿絵に持つ小説がライトノベルだ」ともされることがあるが、他ならぬライトノベルレーベルがイラストを一枚も持たないライトノベルを発刊することもある。このようにどう定義してもライトノベルの定義は「ライトノベル」という漠然とした領域を取りこぼしてしまう。もちろんこういうことはどんなものを定義するにもあり得ることだ。問題は恐らくライトノベルの定義として読者間で広く了解を得られたものが存在しないということなのであろう。


 ライトノベルの定義は、何故か形式的になされようとすることが多い。既に紹介したレーベル依存の定義やイラスト依存の定義もそうである。もちろん形式的に定義されるのが理想ではある。形式的な定義が成功すればライトノベルを他のものと取り違えたりする頓珍漢な振る舞いがぐっと減るだろう。「ココがこうなってるのがラノベだよ」と、あたかも大幸薬品の正露丸を類似品と間違えないためにはラッパのマークを探せば良いということを教えるかのように、ライトノベル初心者にも教えることができたならばものすごく便利なことには違いない。しかしそれは無理なのだ。じゃあなぜ無理なのか、という問題について答えることがこの文章の目的の一つでもある。というか、その理由が明白にわかったらライトノベルそのものの定義もできているはずである。もちろん私のような矮小な人間が学術的にライトノベルを研究している人を差し置いてそのような立派な定義を下せるとは思っていない。ただそれを目指すこと自体は悪いことではないというか、ライトノベルについて知ろうと思うのであればちょっとでも現実のライトノベルの範囲と近い定義をすべく努力すべきであると思っている。


 ところで、ライトノベルの初心者にラッパのマークの正露丸よろしくライトノベルの特徴を教えられたら便利であるとは書いたが、逆の場合を考えてみると、ライトノベル中級以上の読者達はどの作品がライトノベルでどの作品がそうでないかということを感覚的に見誤ることはまずない。ラノベレーベルから出てる小説がラノベなのは当然のことながら、例えば講談社BOXとか星海社fictionsとかのレーベルから出てる小説が、確かにラノベではあるがなんか違うっぽいところや、森博嗣とか京極夏彦とかの小説が、ミステリではあるものの何だかラノベに近い香りを漂わせていることなどは、なんとなくわかるようになってくる。こういう、中級以上のラノベ読者達の間で共有されている感覚に、ラノベの本質を知るに当たってヒントとなるような要素が隠れていないだろうか。レーベルがどうのとかイラストがどうのとかキャラクターがどうのとかいう形式ではなくて、言わばライトノベルの内容そのものがライトノベルの本質を語っているということはないだろうか。などということを私は思っていて、それを以下の文章で語ってみたいと考えている。


 まず最初に、ライトノベルの形式ではなくて内容からライトノベルの特徴を語った言葉として私がいつも重要だと思っている文章の引用から始めてみたいと思う。


 ライトノベルの多くは、主要登場人物を取りまく環境が難易度イージーに設定されていることが多い。主人公やヒロインが破天荒なふるまいをしても、周囲の人々が優しく受け入れてくれる。これは作風をポップにするための手法で、よほど意図がない限り外すべきではない部分だ。これがノーマルモードになってくると、主人公やヒロインがあまり特別扱いされなくなり、わりと社会の悪意にさらされやすくなってくる。人間関係の世知辛い部分も出てくる。つらいことも多い。ライトノベル界には「娯楽作品の中くらい楽しい気分にひたりたい」というイージー志向の読者が多いだろうから、難易度ノーマルはなかなかリスキーな選択となる。だがノーマルでないと表現できない物語もあるから、どちらが正解とは断定できない。


 これは荒川工の『ワールズエンド・ガールフレンド』(ガガガ文庫)の巻末解説としてライトノベル作家・ゲームシナリオライターの田中ロミオが寄せた文章の一部である。注目したいのは「主要登場人物を取りまく環境が難易度イージー」という部分と、「主人公やヒロインが破天荒なふるまいを」するという部分と、「ライトノベル界には……イージー志向の読者が多い」という部分である。これを読んで、さすが田中ロミオは上手いこと言うな、と思った人もいるんではないだろうか。確かにライトノベルの多くは破天荒な振る舞いをするキャラクター達に彩られている。そしてライトノベルの物語の世界観は、たいていその破天荒さを許容する。現実世界であれば出る杭は打たれるべきところが、ライトノベルの中ではさして問題にならない。せいぜいギャグに昇華される程度である。こうした昇華が「作風をポップにするための手法」なのだろう。で、読者達もそれを望んでいる。主人公たちのわがままな行動を否定しない世界観を楽しんでいる。


 こうして書いてみると、ライトノベルはキャラクター小説というよりも環境の小説なのかもしれないと思えてくる。

あるいはより正確に言うならば、破天荒なキャラクターと、その破天荒さを否定しない環境との関係性こそがライトノベルの本質なのではないか、と仮定してみることも可能だ。


 ところで、環境と言えば思い出すのは東浩紀の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)である。この本では、動物と人間という概念が非常に重要なのだが、現代のオタクというのは(昔のオタクと違って)動物化した人間の典型例だ、と東は言っている。つまり「オタク=動物」という前提でもって以下の引用文を読んで頂ければ、既に引用した田中ロミオの意見に関係して何かしら発見があるはずである。


 コジェーヴは、戦後のアメリカで台頭してきた消費者の姿を「動物」と呼ぶ。このような強い表現が使われるのは、ヘーゲル哲学独特の「人間」の規定と関係している。ヘーゲルによれば(より正確にはコジェーヴが解釈するヘーゲルによれば)、ホモ・サピエンスはそのままで人間的なわけではない。人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。言い換えれば、自然との闘争がなければならない。


 対して動物は、つねに自然と調和して生きている。したがって、消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦後アメリカの消費社会は、彼の用語では、人間的というよりもむしろ「動物的」と呼ばれることになる。そこには飢えも争いもないが、かわりに哲学もない。「歴史の終わりのあと、人間は彼らの記念碑や橋やトンネルを建設するとしても、それは鳥が巣を作り蜘蛛が蜘蛛の巣を張るようなものであり、蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散するようなものであろう」と、コジェーヴは苛立たしげに記している。


 どうだろうか。「人間が人間的であるにためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない」つまり、環境と戦っていかなければならないわけだ。それをしてこそ人間だと呼べるわけだ。確かにこれは感覚的に納得できる話ではある。人間が自然にあるもののみで満足して暮らしていたならば、およそ文明と呼ばれうるようなものは何一つ発展しなかっただろう。畑を耕したり服を着たり冠婚葬祭で泣き笑いなどしているのは色々いる生き物の中で人間くらいのもんである。


 で、「主要登場人物を取りまく環境が難易度イージーに設定されている」ライトノベルのほうはどうだろうか。主要登場人物が破天荒でわがままな振る舞いをしてもやさしーく受け止めてくれる楽園のような世界に生きているキャラクター達は、果たして人間だと言えるだろうか。少なくともヘーゲル=コジェーヴ的な基準に照らしてみれば明らかに動物なのである。しかも人気ラノベ作家である田中ロミオが自ら語ったラノベの特徴がこれなのだ。それだけでなく同時に「イージー志向の読者が多い」とまで言っちゃっている。これじゃあまるでラノベを世に送り出す側からして「ラノベ読者は動物みたいなもん」と考えていることを公言しているかのようだ。


 まあ確かに「JSが俺を取り合って大変なことになっています」だの「誰もが恐れるあの委員長が、ぼくの専属メイドになるようです。」だの「反抗期の妹を魔王の力で支配してみた」だの「お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ」だの「俺が彼女に迫られて、妹が怒ってる?」だのと言ったタイトル(2ちゃんの過去ログを参考にさせて頂きました)を見てみれば、そりゃあ動物よばわりされても仕方ないわいな、という気持ちになる。もうタイトルだけでおなかいっぱいというか、読む気にならないというか、イライラするというか、私が参考にした過去ログのスレタイからして「ラノベのタイトル一覧がひどい マジで吐き気がする いつからこんな酷くなった………」とか言っている。もちろん中身を読んでみれば思ったよりも酷くない小説もあったりする。けれども読んでみてやっぱり動物向けだった……と落胆するような小説のほうが、私の経験では格段に多い。


 でも、だからといってそれがラノベの本質とまで言えるだろうか、と問うてみれば、やはりそうとも言い切れないのではないか、というよりも、ライトノベルの名作として名前が残っている過去のライトノベルのことを思い返してみると、むしろ逆に動物感あふれるライトノベル界から頭一個抜けようと努力しているような、言い換えれば環境(=ラノベ界)と戦おうと(=頭一個抜けようと)しているラノベのほうが名を残している。


 私の個人的嗜好で恐縮だが、パッと思いつくまま具体的に例を挙げてみるならば、まずは『クリス・クロス』があり、『ブギーポップ』があり、『フルメタ』があり、『マリみて』があり、『ハルヒ』があり、そして近年では『アクセル・ワールド』がある。これらはいずれも各々違う特徴を持ったライトノベルであり、決して十把一絡げに扱うことのできない作品であるが、しかしいずれも名作であり、そしていずれもラノベ外的なものを取り入れているという特徴がある。『クリス・クロス』は、これは有名な話だが一般エンタメ小説である岡嶋二人の『クラインの壺』(新潮文庫)からネタを拝借していると思しいし、『ブギーポップ』や『ハルヒ』の作者はともにかなりのSFファンであるらしく、それが作風にも色濃く滲み出ているし、『フルメタ』はタイトルからしてラノベの外へと意識が開かれているのは明らかだし、『マリみて』はまあ違うマーケットに何故か飛び火しただけと言えなくもないのだが、しかし結果的には男性オタク読者にとっては外部的な要素を提示してくれてかつ面白く読まれる必然性を備えたラノベだったと言わねばならないだろう。そして『アクセル・ワールド』はオンライン小説という、これまた読者層が微妙にライトノベル読者層とは違うところに出自を持つ小説である。また、物語開始時点において主人公を取り巻く環境がこれほどハードなラノベも珍しい。何しろ主人公のハルユキはデブでオタクでいじめられっ子なのだ。もっとシュッとした奴を主人公にしろよ……などと考える間もなく、読者は物語に引き込まれてしまう。デブでオタクでいじめられっ子、という要素すべてがこの小説にとって面白さのカギとなっていて、「俺はラノベ太郎。どこにでもいる平凡な高校生だ。でも何故か美少女が次々と押しかけてきて困っている。俺の平和な毎日は一体いつ帰ってくるんだ!?(俺は鈍感なので自分がモテモテなことに気付いていない)」というような凡百の金太郎飴的ラノベを完全に超克してしまっている。


 つまり、田中ロミオが言うような「多くのライトノベル」的であること(=動物の読み物であること)と、ライトノベルの名作となる条件とでは、何かが根本的に違うのである。もっと言えば、ライトノベルの名作とは、ライトノベルの固定観念それ自体と戦うことによってこそ生まれるのではないか、という疑念がここに生じるわけだ。


 そこでいささか唐突だが、ここから長谷敏司の作品を用いてライトノベルのライトノベル性が一体どのように存在しているのかを考えてみることにする。何故長谷敏司なのかというと、最近『BEATLESS』というラノベとSFの境界線上にあるような作品が刊行されて今回のテーマの参考になると思われるし、そもそもこの作家自体がラノベに出自を持ちながらSFで有名になったというやや珍しい経歴を持っているからである。つまりラノベもSFも両方書いている作家なのだ。じゃあ長谷敏司とはライトノベルとSFを自在に書き分けることのできる作家なのかというと……まあ私の実感としては全く逆で、彼の書いたラノベは全くラノベっぽくないというか、少なくとも動物の読み物ではない。でもラノベにおける代表作である『円環少女』シリーズ(角川スニーカー文庫)は13巻も続いた、人気シリーズと十分呼べる作品である。そこで私が考えたのは、ラノベを書くに当たってことさらラノベを意識する必要が本当にあるのか? という問題である。確かに美少女は大事だろう。破天荒なキャラクターも重要だ。主人公の少年がモテまくるのももはや当然の定石である。しかしもっと大事なのはそれらの要素が実際にどう機能しているのかということではないのか。美少女や、破天荒さや、物語のパターンなどが、ライトノベルとして動物的に運用されず、何か別ジャンルの小説ででもあるかのように人間的に運用されても、それはそれでライトノベルとして読まれ得て13巻もの巻数を重ねることができるのではないだろうか、ということを考えたのだ。


 ではまず彼のデビュー作である『戦略拠点32098楽園』(角川スニーカー文庫)から見ていくことにしよう。ちなみにここから先はネタバレへの配慮は全くしないので、嫌な人は各作品を読んでからにしたほうが良いかもしれない。で、『楽園』だが、この小説はラノベにしては珍しく、作品論として作中にあるメタファーを色々読み解いていくことを楽しむことができる小説である。というか、それをやらないとこの小説のどこが面白いのか多分わからないだろう。そういう意味でラノベに期待されているラノベ的な要素とでも言おうか、つまりは動物的な要素は薄い。ではどういう部分がメタファー解読的に面白いのか。この小説はタイトル通りの「楽園」という星に一人の男がやってくるところからはじまる。「楽園」には機械の体をした男と、少女が一人住んでいて、穏やかな日々をすごしていて、あとからやってきたほうの男も段々その生活になじんでいく。でもその星の外では現在も二大国が戦争中で、作中において「楽園」で共同生活をする男二人も実は敵同士なのだが、別に殺し合いに発展することもなく、というか友達にまでなっちゃったりする。「楽園」には自然に食べ物が木に生ったりしていて住むのに適した環境が整っている。毎日少女たちは外に生えてる食べ物をとってきて食べて暮らしている。つまりヘーゲル=コジェーヴ的な動物として生きることがナチュラルにできてしまう環境なわけだ。なぜならその環境と戦わなくても生きていけるから。人間的に生きるのであれば地面を耕したりという泥臭い労働が必要なはずだ。そういうものから少女達は免除されている。でも話が進むうちに「楽園」の中にずっと安住しているわけにはいかないことが段々わかってくる。楽しく暮らしているはずの少女は実は人造人間で一定時間たつと記憶がリセットされるように設計されていて当然成長もせず延々と子供の姿のまま生き続ける存在であることが判明するし、この「楽園」は墓場であって戦死者が送り込まれるところであるらしいということもわかる。まあ言うまでもないとは思うが、この「楽園」をラノベそのものとして読んでみると、この小説がなかなか重要なことを書いているように読めてくる。物語冒頭で落っこちてきた男のほうは、この「楽園」が戦略上重要ではないことを軍隊に報告することによって「楽園」が戦闘に巻き込まれないようにして守るため、という理由と同時に、戦争の中で死んでいった仲間達や自分に課されていた責任に報いるために、ついには「楽園」を出て行く。対してもう一方の男は「楽園」に残って、成長もしなければ記憶すら残らない少女を守ることにする。自分の所属していた軍への責務を放棄した形である。軍っていうのが社会だとか厳しい現実だとかいうものを隠喩として表現しているのは明らかで、これは田中ロミオの言葉で言えば「楽園」がイージーモードの世界であるのに対して「ノーマルモード」の世界ということになろう。


 この二人の選択がどういうことを意味しているのか考えてみると、色々と興味深い。まず、まがりなりにもライトノベルの老舗レーベルから刊行されているにもかかわらず、作中の「楽園」をライトノベルそのものとして読み替えてみると、この小説がライトノベルをかなり空虚かつグロテスクなものとして描いていることがわかるであろう。その空虚さグロテスクさはひとえに成長というものから全く疎外されている少女の設定に仮託されている。つまりラノベなんていう動物の読み物を読んでるうちは何も発展性ねーぞ、と作者が言っているかのように読めるわけだ。その上で、二人の男は対照的とも言える行動を各々とって、一人は「楽園」を抜け出し、一人は「楽園」に残ることにする。だがその動機には共通する部分がある。二人とも「楽園」と少女を守るためにそうしたのである。「楽園」に残るほうの男がそういう動機を持っているのは当たり前のことだが、「楽園」を抜け出して、いわば「成長」のある世界を目指したほうの男までも、成長のない「楽園」(=ラノベ界)を守るためにそうしたというのがいささか逆説的だ。


 もちろんそういう読み方が実は作者の意図に反している、という可能性もある。だが、美少女とのまったりした日常を送るための舞台となっている「楽園」が典型的なライトノベル的世界観を全く連想させないというほうが無理がある。作者の意図がどうであれ、そういう読み方ができてしまう、あるいはどうしてもそう読めてしまう文脈が今のライトノベル界には存在しているのだ。そして、美少女に対置される、ヒロインと対になり得る男性側のキャラクターが通常のライトノベルと違って二人に分裂しているところも何やら意味深である。二人の位置づけは、「楽園」=「ライトノベル界」を出て「成長」を目指す人と、「楽園」=「ライトノベル界」に留まり「成長」無き世界に甘んじる人、という風に分けることができる。これまで縷々述べてきた私の問題意識に引き付けて言えば、前者は人間的なラノベ読者、後者は動物的なラノベ読者にそれぞれ対応するとして、とりあえずはそれほど間違ってはいないだろう。そのことの是非とか、どっちの立場をとるのが良いとか、そういうことを言うつもりは私には無いというか、あまりそっちのほうには興味がない。ただ重要だと思うのは、そうした分裂した立場が『楽園』という作品、ひいては長谷敏司という作家自身に同時並行的に胚胎しているという風に読めるということなのだ。


 続いて人気シリーズとなった『円環少女』についても検討してみたい。諸々の都合上(というか読むのがタイヘンなので)一巻しか扱わないが、逆にネタバレ防止になって良いかもしれないし、私が考えている「人間/動物」「ノーマルモード/イージーモード」「非ラノベ/ラノベ」という二項対立構造は一巻の中だけでも興味深く見出すことができると思う。まずこの小説の特異な設定を確認しておく必要がある。この物語では魔法使い達が多数登場するのだが、彼らの魔法は、魔法の使えない一般人に観測された瞬間に消滅してしまう。それゆえ現実社会の人間は魔法使い達が魔法を使っている姿を終生見ることがない。それゆえ現実社会の人間は魔法が存在しないと思い込んでいる、という寸法だ。主人公はその非魔法使いとして、魔法を観測することによって打ち消してしまう一般人としての能力を生かして、違法な活動をする魔法使いたちを取り締まる組織の一員として働いている。『とある魔術の〜』の上条さんを連想して頂ければわかりやすいかもしれない。で、主人公はその力でもって魔法使いの犯罪者たちをガンガン殺していくわけだ。物凄い魔法を使う大犯罪者も、その能力を封じられたら普通の人間であり、体を鍛えたムキムキの主人公にあっけなくぶっ殺されてしまう。ある意味非常に夢の無い話である。この作品についても『楽園』同様の読み方をやってみると、敵として配置されている魔法使いの犯罪者達を、ラノベ的な世界に生きる者たちと読み替えることができる。彼らは現実世界にはあり得ない荒唐無稽な超能力を使う。しかし主人公は現実社会に準拠して生きる人間である。その証拠に、魔法の能力に目覚めてしまった女子高生に対し、魔法なんか使わなくても地道にコツコツ日々の暮らしを楽しく暮らしていくことこそ本当の「魔法」だよ、みたいな説教をかましたりする。まあ作中ではこれがある種の標語として出てくるから良いものの、普通ラノベでそれを言っちゃあお終いだろ、と言いたくなるような言葉だ。


 また、この『円環少女』は文章が非常に読みにくいライトノベルとして定まった評価を得ている。読みにくいのには色々理由があろうが、まず考えられるのは動物的なライトノベルの文体を模倣しようとしていない、ということである。誤解がないように急いで付け加えておかねばならないが、私自身は動物的なライトノベルの文体とは非常に技巧的なものだと考えていて、簡単に書けるものではないと思っている。というより非ライトノベルの領域で用いられている文体よりも格段に書くのが難しいと思っている。まず動物的なライトノベルは読者に読む労力の負担をかけないように配慮せねばならず、ただ字を眺めているだけでスッと意味がとれるような文体を備えていなければならない。何しろ動物を相手にしているのだから、人間的で能動的な読書への態度など期待し得べくもないのだ。ライトノベル作家の多くはこのシビアな条件下で戦っている。その能力は実はもっと高く評価されても良いのではないかと私は思っている。しかもいわゆるラノベの名作と呼ばれる小説群は、動物にも理解できる文体で書く、という条件をクリアしつつも、尚且つ人間的な読書にも耐えうるような複雑な内容をライトノベルとして表現している。とりわけ『ブギーポップ』『ハルヒ』など既に挙げた作品はまさしく天才的な仕事だと言ってよい。しかし『円環少女』の場合は、一読して明らかな通り動物たちに読まれるということへの配慮がほぼ全くない。ウソだと思うなら読んでいただきたい。いわゆるライトノベルの文体を期待してこれを読み始めると閉口すること請け合いである。ネット上のレビューサイトにおいても「読みにくい」「難解」「稚拙」など、文体に関しては散々な評価が踊っている。とはいえここで考えてみたいのは長谷敏司の文章が稚拙なのか、ということではなくて、長谷敏司の文章が読者に努力を求める文体であるにもかかわらず一定の人気を得ているとはどういうことなのか、という点である。『円環少女』はその設定だけを見てみると一見その辺の動物的なラノベと変わらない。主人公の青年は、サドっ気のある小悪魔な魔法使い小学生に好かれていると同時に、料理の上手な気立ての良い女子高生新米魔法使いからも好かれていて、まあ両手に花というか、ラノベでは全く珍しくない境遇におかれている。「メイゼルちゃん(小学六年生のメインヒロイン)ぺろんぺろんしたいお! クンカクンカしたいお!」などという欲望とともにこれを読むことも不可能ではないわけだ。というか、そういう欲望を煽って本書が売り出されている側面はきっとある。何しろあとがきで作者自身がそういう売り出し方を意識していることを書いている。しかし、物語の筋や文体それ自体はあくまで人間的で能動的な読書を読者に強いている。ここでも長谷敏司作品が動物性と人間性を同時に備えていることをみることができる。


 次は彼のSF作家としての大出世作となった『あなたのための物語』を検討してみよう。この作品はそれまでのライトノベル作品とは違って早川書房から刊行された。つまりSFのレーベルから出版されたわけだ。それゆえ、ある意味当然のことではあるが、ここにはもはやライトノベル的な動物性を見出すことができない。美少女やメカやバトルや超能力や魔法、といういかにもライトノベル的な要素が全く含まれていないからだけでなく、何より田中ロミオの言うイージーさはこの物語とはほとんど無縁である。そして奇妙なことに、長谷敏司はこの小説では従来の読みにくい文体を克服しているかのように読める。SF作家としての長谷敏司は、なんともスラスラ読みやすい小説を書く人であるかのようなのだ。もちろんこれには読者の意識が関係しているだろう。SFを期待して読んでるのであれば、多少難解な部分があって当然という態度で読者は作品に臨む。対してライトノベルの場合は真逆である。頭を空っぽにしても読めるような文章を、ラノベ読者は期待している。


 ここで一つ、なぜ長谷敏司の(ライトノベルの)作品が「悪文」だと読めてしまうのか、あるいは「難解」だと思われてしまうのか、という問題に対して仮説を立てることができそうだ。その仮説は、我々ライトノベル読者自身が考えている以上にライトノベルを読むときとそうでない小説を読むときとでは読者の読み方が違っていて、小説ジャンルと文体との間にカテゴリーエラーがあると読みにくさの度合いが一気に高まってしまう、ということである。それゆえ『円環少女』を最初からライトノベルだと思わずに読めばイライラすることなくスムーズに読めるのかもしれない。


 もちろん、『円環少女』シリーズを書き続けた経験が生きて、長谷敏司が作家として成長したから読みやすい文体になったのだ、という説を考えることもできる。しかしその説は新著『BEATLESS』において否定されることになるだろう。『あなたのための物語』で長谷敏司の小説にはじめて触れた読者(私もそうだった)は、この『BEATLESS』においては『円環少女』ほどではないにしろ、やはり読みにくい文体に苦しみながら読むだろう。単に読みにくいのではない。文体があまりに地味なのだ。アクションシーンだとかドラマチックなシーンでさえも淡々と描写されるのみである。正確に言い直せば、読みにくい、というよりも、この小説が一体どの方向に向けた小説なのかが非常にわかりにくい。ライトノベル、というには誇張表現が足りない。地味すぎる。SF、というには科学技術の解説などに少し踏み込みが足りない。平たく言えば中途半端な小説なのだ。


 この、ライトノベルともSFともつかない中途半端さについては、SFマガジン2012年11月号(早川書房)に掲載された作者インタビューが参考になる。少し長くなるが引用してみよう。


(引用者註:長谷の発言)SFというと、基本的には世界に対して切り込んでいくような主人公が設定されることが多いのですが、本作におけるアラトは、わからないものについては最後までわからなくてもいい、というふうになっています。つまり、アラトを通じて、ここだけを楽しんでもらえたら『BEATLESS』という物語を楽しんでもらえるよ、というところを設定しているわけですね。ただ、SF好きな読者にはさらに深いところまで読み込んでもらえるポイントを用意しているので、なにもわからなくても読み進められる道と、選べばどんどん広がっていく道と、二種類の道を選べるようにしてあります。


(中略)


――主人公の合わせ鏡といってもいい存在、リョウについてはいかがでしょうか。


長谷  リョウはもうひとりの主人公といってもいいと思います。本来『BEATLESS』はリョウを主人公として書かれるべきでした。リョウの視点で進めていけば、もっと整理された理解しやすい形で書くこともできたと思います。僕がこれまでに読んできたSFの主人公に近いのはリョウですし。活動的で、変化する状況に対してみずからアプローチする意思を持ち、世界に対して問題意識を持っている。


――確かにアラトとは正反対の印象を受けるときもありました。


長谷  アラトは現実に対して問題意識を持つことがほとんどありません。彼はSFの主人公としてはもっとも問題のある、「足ること」を知っているキャラクターなんですね。SFという物語を動かしていく場合、本来は問題意識を持つ人たちを主人公に据えて語るべきだとは思うんです。


 上記を読んでもらえればわかる通り、この『BEATLESS』は、作者本人が、SFの主人公たるにふさわしい人物を主人公として選ばなかったせいでSFとしての完成度を下げている、ということを半ば認めている小説である。しかしそのこと自体は今は問題ではない。私はライトノベルについて考えているからだ。それに、主人公をSF的なリョウではなく非SF的なアラトにした理由は、この部分の直後に述べられている通り、この世界はリョウみたいな人間だけでは構成されていないからであって、アラトのような人間を敢えて主人公にすることによって、アラトのように「足ること」を知っている価値観を排除しないという目的があるからなのだ。それはそれで、SFとしての完成度如何はともかくとしても注目すべき試みではある。そのことは、いわゆるSFファン以外の読者をも想定に入れていることを示しているからだ。


 ここで我々は「人間的/動物的」という二項対立図式を思い出すべきである。何故なら本来の主人公として考えられている「世界に対して問題意識を持っている」リョウと、SFの主人公としてもっとも問題のある「(世界に対して)問題意識を持つことがほとんどない」アラトという対照的な二人の「主人公」は、そのまんまヘーゲル=コジェーヴ的な意味での「人間/動物」にそれぞれ対応するであろうからだ。そしてさらに、既に確認したようにデビュー作である『楽園』においても「人間/動物」という区分に対応し得る二人の対照的な主人公が登場していたのだった。そしてこの『BEATLESS』においても、リョウのように人間的であるべきなのか、それともアラトのように流されるまま動物的に生きていてもオッケーなのか、という問題についてはここでは判断留保にしておく。ただ、『BEATLESS』の中では、未来の世界では必然的にアラト的であること、つまりは動物的であること、より正確に言えば敢えて動物的であることが必要になる、という事態が描かれていて、この物語はヘーゲル=コジェーヴ的な二項対立を揚棄するポテンシャルを秘めている。そこには人間的であるべきか動物的であるべきかを問うような余裕はないというべきだ。どういうことか単純化してかいつまんで説明してみよう。この作品にはレイシアという美少女型のロボットが登場するのだが、彼女は主人公であるアラトを所有者として登録する。なぜアラトを所有者としたのかというと、アラトが物事に疑問を抱かず簡単に信じてしまうチョロい人間だったからだ。そういう人間を所有者として選んだのは、レイシアが人間を騙して好き勝手しようとしたからではない。レイシアは高性能過ぎて、一々自分の行動に所有者からの承認を得る手続きを経ていたらその性能を十分に発揮できないのである。それゆえ、レイシアのことを簡単に信じてくれて、言わば判断する権限をレイシアへ全面的に委譲してくれるアラトのような所有者のほうが、レイシアの性能を最大限に引き出せる優秀な所有者となり得るのである。これは一つの転倒である。従来、道具の所有者としてはリョウのように懐疑的に世界を見て主体的に行動する切れ者タイプのほうが優れているとみなされてきた。しかし、道具の性能が人間の機能を大幅に上回るような近未来の世界では、リョウのように一々道具の状態をチェックするタイプの所有者は、道具の性能を引き出せないのだ。いかにも近代合理主義的な、疑う、という行為がむしろ合理性を毀損してしまうのである。その結果、作中で描かれているような機械の暴走めいた事態を誰も止めることができなくなってしまう。この危機的な状況を解決できるのは、レイシアという超高性能の機械を全面的に信じてしまうアラトのような人物なのだ。アラトのように非合理的に振る舞った方が、むしろ合理的な帰結を導きうる。そしてそうしなければ解決できない事件を、この『BEATLESS』は描いた。


 もちろん本当にそんな未来が訪れるのかどうかは謎である。実際にはどんなに機械が発達しても、はやり懐疑的な人間であることこそが道具の運用を安全たらしめ続けているのかもしれない。しかし『BEATLESS』に未来予想としての正しさよりも、何らかのメッセージを含んだ物語としての側面を見てみると、色々と面白い内容が見えてくるのだ。例えば、アラトという人物は人間的とか動物的とか言う以前に、いかにもラノベの主人公っぽい。彼は何よりもまず『BEATLESS』のライトノベル的側面をこそ代表していると言ったほうが良いだろう。その彼が、リョウから散々「物事を疑え、主体的になれ」と叱られながらも結局「レイシアたんが好きなんだからしょうがないだろ!」とセカイの中心でアイを叫んだケモノ(=動物)になることによって人間世界を救済してみせる。アラトは単純に動物なのではなくて、逆説的だが、主体的に、積極的に、人間的に動物であることを選択したのだ。


 この捩じれた構造は『楽園』の中の、最後に「楽園」を飛び出していくほうの主人公の選択を彷彿とさせる。彼は「楽園」を出ていくことによって「楽園」を守った。言い換えれば「現実」に飛び出すことによって「楽園」を守ったのである。それに対してアラトのほうはどうだったのかというと、彼はレイシアという「楽園」に積極的に留まることによってむしろリョウたちの「現実」を守ったのであった。


 上記に見てきたように、長谷敏司という作家の小説は、彼の経歴と同様にライトノベル(アラト)だとかSF(リョウ)だとかいう区分をかく乱させるような要素が含まれていて、そして私はそこにこそこの作家の大きな可能性が秘められていると感じる。それゆえに、いくら良質なSFであったとしても、いくら偉い賞を受賞したとしても、『あなたのための物語』にはその他の作品に比して一段下の評価をしなければならないと感じてしまう。たしかに単純に小説としての出来は『あなたのための物語』が一番良かったと思うが、読んだ後に読者達へとフィードバックしてくるような強いメッセージを持ちうるのは明らかに『楽園』や『BEATLESS』のほうなのだ。もちろんこのことは私が長いことSF読者ではなくてライトノベル読者だったからだ、という事情も大きく関係しているだろう。しかしながら「人間的/動物的」という区分が解けていくような要素を持つということこそ、人間性の様態が定まらぬ現代にあってライトノベルだとかSFだとかいう狭隘でケチな枠組を超えて示唆的であるだろう。


 とはいえ、この評論はそもそもライトノベルのことについて考えていたのであった。それゆえ私はここでもう一度ライトノベルの本質という問題に立ち返って考えてみることにしたい。冒頭に見たように、原則的にはライトノベルとはイージーモードの世界観に支えられた動物に向けられた小説だと言うことができる。しかしそういうライトノベルは固定観念化したライトノベルである。ライトノベルにはもう一種類、越境するライトノベルがある。ラノベの外から影響を受けていたり、あるいはラノベの外へ影響を与えるようなラノベだ。ライトノベルの名作として名前が残っていくのは、私が見る限りほぼ例外無く後者である。このような名作としてのライトノベルは、単純なイージーモードを否定するという構造上、人間性と動物性の両側面を保持している小説となる。このような二つの「ライトノベル」がある意味混同して読まれているのが現在の状況であり、これもライトノベルの定義がうまくいかない理由の一つだろう。十人だか二十人だかの美少女から結婚を申し込まれるような小説もライトノベルと呼ばれるし、そうした虚構の世界を批判するメタなラノベもやはりライトノベルと呼ばれる。だからといってどっちの「ライトノベル」のほうが優れているか、などということを議論してもあまり意味が無い。そういう動物の読み物としてのライトノベルと、人間も読めるライトノベルの二種類があるというだけである。そして、そのどちらか一方をとりあげて「こっちがライトノベルであってむこうはライトノベルではない」とか言ってしまうのはイデオロギーだ。ただ、今回取りあげた長谷敏司のいくつかの小説が、まあライトノベルとしての出来というか商品としての出来はともかくとしても、後者のタイプのライトノベルであるということくらいは言えるだろう。そしてラノベという枠組みを取っ払った場合には明らかに後者のタイプのラノベのほうが価値を持っている。それだけは確かだ。もし我々ラノベオタがいつかラノベの世界を卒業する日が来たとしても、人間に向けて書かれたライトノベルだけはきっといつだって再読に耐えうるのだ。


<本文中に取り上げた長谷敏司作品の各革命力>


『戦略拠点32098楽園』 革命力78

『円環少女』(第一巻のみ)  革命力62

『あなたのための物語』   革命力55

『BEATLESS』    革命力85


hkmaro